中野区 コン デンタルクリニックの院長と経営理念を紹介します

院長:今 悟(こん さとる)のご紹介

小学生のころ

私は昭和44年10月12日生まれで出身は北海道の三笠市という田舎町でした。
私の幼少のころはまだ炭鉱があり、町もそれなりに活気があったような記憶があります。その他はスイカ、メロン、玉ねぎといったような農業や酪農などを行っている町です。

小学生のころ町で恐竜の化石が発掘されたということで一躍恐竜の町として全国的に知れ渡ったこともありました。
三笠市出身の有名人としては俳優の小日向文世さんなどがおります。

私は4人兄弟の長男として生まれ、父も歯科医師をしていました。当時は景気がよく父も地方の長者番付に載るぐらいのバブル景気でした。 ただ父と遊んだ記憶は少なく毎日帰りが遅く、日曜日は毎週ゴルフに行きゴルフコンペの景品がおみやげといったような感じでした。

小学校のクラブ活動は当時は男子は野球部しかなく野球部でレギュラーを取ることが花形でした。しかし競争率が激しくあまり上手でなかった私は市でサッカークラブを立ち上げることになり、それならいけるかもとサッカークラブに入りそれからサッカーに明け暮れる日々となりました。あるときクラブにセルジオ越後さんが講師としてきていただいてその時のプロのシュート力に圧倒されて将来はサッカー選手になりたいという憧れが芽生えました。
しかし小学校の卒業文集には将来は「勉強をして北海道大学に入り立派な歯医者さんになる」ことと書いていました。

中学時代

中学の時はサッカー部というクラブがありましたのでサッカー部に入りました。
ただ田舎の学校のサッカー部なのでいわゆる不良の集まりみたいなところもありました。
入部してしばらくたった後新しい監督の先生が赴任してきました。今まではサッカーのことをあまり知らない体育の先生だったのですがその先生はサッカーの強豪校で監督をしていた先生でそこからうちの学校のサッカー部が不良の集まりからサッカーの強豪校へ変貌していきました。

中学3年生の時は地区予選では負け知らずで、全道大会では室蘭の学校に屈辱的な大差で負けましたが充実した中学校生活を送ることができました。

勉強の成績は中学1年生の最初のころは不良仲間と一緒のグループにいたためかなり悪かったのですがサッカー部が強くなるにしたがって不良グループから抜け出し成績も上がっていきました。
卒業時は主要5科目の成績が5段階評価のなかですべて5という成績でした。
父は相変わらず家にいることは少なく、朝は通学、出勤時間の違いで夜は会合などで父と一緒に食事をとることはほとんどありませんでした。
父とのコミュニケーションの時間はなく高校受験の進路もここに行くからと事後報告みたいなものでした。

高校時代

高校1年生の夏休みに腰の椎間板ヘルニアで手術をしました。受験勉強で鈍っていた体に急に雪の中でサッカーをしたのがきっかけでした。
その後経過は良好でまたサッカー部に入り部活動に熱中しました。高校の時も弱小サッカー部だったのが3年時には地区大会で優勝し全道大会に出場するまでになりました。また自分も地区選抜に選ばれ、順風満帆な高校生活を送っていました。

遅いかもしれませんが高校3年生の春が終わるまで自分の進路について明確な考えはありませんでした。というか悩んでいました。

実は普段全く家にいなくコミニュケーションが取れていない父をみて歯医者とはどういう職業なのか、バブルのころで患者さんも多く景気も良かったかもしれませんが何か父が悪いことをやっているような、実際にはそんなことがないにしても自分の中で歯医者のイメージがあまりいいものではありませんでした。
高校受験の時と同様に父と進路について話す機会はありませんでした。

そんな中のある日父がいつものように会合から夜遅く帰ってきて、酔った勢いで私にどこも行くところを考えていなかったら、歯科大学に行ってくれと言い放って自分の部屋に帰っていきました。私はその時腹が立ちました。今まで何にも相談したことがなかったのに一方的にしかも酒の力を借りて歯科大に行ってくれと、こちらの気持ちも考えず何を言ってるんだという思いでいっぱいでした。
後日、母が父に息子とちゃんと話し合う時間を作りなさいということを言い父と話し合うことになりました。

自分はサッカーで生業を立てるほど上手ではないけれど何がしたいかと聞かれれば、 サッカーがしたいと答え、父は言葉少なげですが歯医者になってほしいといいました。 普段からあまり話をしたことがない上にまじめな話をしてその場にいるのがとても苦痛な気持ちだったのを覚えています。

大学時代

自分の思いの中に歯医者になろうという思いはあったと思います。しかしそれが小さいころには父のような歯医者になりたいという思いから家にほとんどいない父を見て父のような歯医者になりたくないという思いに代わったことで悩んでいたのだと思います。

ただ高校生のころは将来どういう職業に就きたいかなど明確な答えも出ず、本心から納得していたわけではありませんが歯科大学に行くことになりました。

大学は東京の日本大学に入学しました。大学時代もサッカーを続けてキャプテンもさせてもらい6年間でオールデンタル2位と3位が2回という成績でした。

私は18歳まで北海道の田舎に住んでいて東京という街に憧れはありました。
ただ東京で一人暮らしをしていると両親へのありがたみ、父が忙しく働いていたおかげで自分が今こうやって生きているんだということがわかったような気がしました。

大学卒業後

大学卒業後、同大学の大学院に行くことにしました。
医局はクラウン・ブリッジというところで聞きなれないかもしれませんが大きく分けると補綴科という分野です。 教授、助教授をはじめ諸先輩方の臨床の技術に惹かれて入局しました。

こうしてまたさらに6年間学生時代とは別に大学で勉強しました。大学院生だったので研究もしましたが教授が臨床あってこその研究ありきという考え方だったので歯科医師としての心構えからさまざまな技術を学ぶことができました。この6年間が自分の診療のベースとなっており、補綴の分野では自信を持って治療が行えます。

父とは同業ということもあって実家に帰ると話す機会も多くなりました。一緒に食事を行くこともありました。ただ父も母も本当は田舎で父の後を継いでほしいと思っていたと思いますが私に気を使ってあまり言うことはありませんでした。
私も父も健在だし、田舎で父の後を継ぐというよりも東京でもっと勉強したいという気持ちが強くありました。

勤務医時代そして父との死別

両親の思いもよそに私は大学を辞めて勤務医として勤めることにしました。
浜松町の東芝本社ビルの中にあるクリニックで、主に社内の方や近隣のオフィスビルの方が患者さんでいらっしゃいます。サラリーマンで忙しい方が多く、そこでは限られた時間で最良の治療をすることを学びました。またサラリーマン世代では歯を被せたり、無いところに歯を作るといったような治療も多く、自分が大学で学んできたことがいかんなく発揮することができました。

そんな折に父が入院したと連絡がありました。父は肝臓を患っており肝硬変から肝臓がんに移行したという話でした。肝硬変になった時に母と兄弟で集まって病院で生体肝移植の話を伺ったこともありましたが父が望まないということで様子を見ていた最中でした。
父の病状は日に日に悪化しあるとき母から連絡があり、もってあと1週間という知らせがありました。私は仕事を休んで父の入院している病院へ 行きました。父はモルヒネを打って痛みに耐えていました。時折話しかけて私が田舎に帰って父の診療所を継いだ後の話とかをしていました。病気で言葉にならない言葉でしたが父の思いを受け止めていないことにむねが痛みました。

それから3日間ぐらい毎日入院先の病院へ行き父と話をしたり面会に来るかたとお話をしました。東京に戻らなくて はいけない日に私は病院から空港に行く電車にまちがって違う電車に乗ってしまいました。 最終便で帰るつもりだったので電車を間違えたことでその日にはもう東京へは戻れません。 また実家に帰るにも田舎なので終電が過ぎています。仕方なく病院に戻って次の日の朝一の飛行機に乗って帰ることにしました。
その夜は父の病室で簡易ベットを入れてもらって寝ることになりました。父には何をやっているんだと言われましたが少しうれしそうだったのを覚えています。

それから東京に帰って直接仕事場へ行き自宅に帰って妻に父のことを話しました。今度父に会うときは父は亡くなっているんだと思うとポロポロと涙が止まりませんでした。

父が残したクリニック

父が亡くなる数か月前に両親を含めた家族会議で自分が東京のクリニックを辞めて父のクリニックで働くという話をしていました。
兄弟で歯科医なのは私だけでしたし実は父は自分がそんなに早くは死なないだろうと思っていたみたいで初めは一緒に仕事をしようとしていたみたいです。父以外の人たちは父の余命を聞かされていたので、父亡き後は長男である私が後を継ぐのがあたりまえという感じでした。 父が亡くなって諸手続きを行って私が父のクリニックを継ぐことになりました。

ただ北海道の三笠市というのは炭鉱が閉鎖してから過疎化の一途をたどっていて、今では市の人口は 一万人を割っているという状況です。さらに65歳以上の人口の割合が全国で2番目に多く15歳未満の人口の割合は全国で2番目に少ないという極度の少子高齢化の町でした。 そのようなところではたして開業してやっていけるのかという不安が募りました。

父の診療所を継ぐと案の定ほとんどの患者さんが高齢者でした。その割合は8割~9割です。 今までは働き盛りのサラリーマンの方が中心だった患者層が一気に変わりました。 しかしそれがかなり勉強になり最初は困惑していましたが、高齢者医療というものに携わることができ人としても幅が広がったような気がします。

母とは自分はどうしても東京で開業したいという話をしまして、1年間父の見てきた患者さんの整理を行って、引き継いでくれる人を探してお願いをするということで合意してもらいました。
父と一緒には仕事はできませんでしたが、父がやってきたことというのは1年間を通して自分の中に吸収できたと思います。

開業に向けてそして現在

北海道で仕事をしながら東京で開業地を探していました。 現在の中野区松が丘というところは実は学生時代に近くに住んでいたこともあって地の利がありました。

平成19年2月1日に、大学時代、勤務医そして父の診療所で学んできたことを生かし地域医療に精励し地元と皆様に信頼していただける医院を心掛けることを目標に開業しました。

現在自分のほかにドクター、歯科衛生士(妻を含む)、歯科助手といったスタッフ構成で診療しています。
今後は、さらにスタッフとの団結力を高め、医院として地域1番になれるように勉強していきたいと思います。